第151回
株式会社高齢社
代表取締役会長
上田 研二 Kenji Ueda
1938年、愛媛県生まれ。小学6年生の時に父親が失業し、家計を助けるためアイスキャンデー売りやマッチのラベル張り、農家の手伝いなどさまざまなアルバイトを経験。1956年に県立八幡浜高校卒業後、東京ガスに就職。配属先の東京まで急行列車で22時間30分という長旅であった。検針係として5年間務めた後、営業所や営業経理を経て、1971年に営業計画課係長に昇進し、初の部下を持つ。1979年から本社勤務。1984年頃から協力企業政策を担当する部署のマネージャーとして企業経営の基本を学ぶ。1991年、子会社に取締役として出向し、経営の立て直しに尽力。1997年、同社の協力会社の再建を任され、社長として再出向する。1998年、東京ガスを定年退職(協力会社社長は続投)。2000年1月、協力会社のピーク業務対応と定年後の人材再活用を兼ねて、株式会社高齢社を筆頭株主として設立(社長は協力会社役員の是澤節也氏)。2003年、協力会社の再建を果たし、退任とともに高齢社の社長に就任。2010年、会長に就任。
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ライフスタイル
好きな食べ物
うなぎです。
近くに「久保田」という老舗があり、今日も行ってきたところです(笑)。最近は減りましたが、以前は3日に1回は食べていました。肉と果物が好きですが、野菜は嫌いですね(笑)。
趣味
マージャンです。
小学5年の頃から家庭マージャンを始めて以来、好きになりました。今でも、東京ガス時代の先輩や仕事仲間と月2回は打っています。競馬も大好きです(笑)。
行ってみたい場所
ニュージーランドです。
よく人からいいところだと聞かされるから、一度は行ってみたい。でも、パーキンソン病になって体を動かすことが億劫になってからは、以前ほど海外に行きたいとは思わなくなりました。
シニアに“仕事”と“生きがい”を!
高齢者専門の人材派遣会社で勝負
60歳から75歳までの“高齢者”約850人を登録し、東京ガスおよび関係会社・協力会社、ガス機器メーカー、電気機器メーカー、マンション管理会社など50社を超える顧客に派遣している株式会社高齢社。同社を設立した上田研二氏は、定年後に家に閉じこもり家族から邪魔者扱いされる高齢者は“産業廃棄物”とジョークを飛ばす。そんな高齢者に再び働く場を提供して生きがいを与えるとともに、高齢者を受け入れてくれる企業には、低料金で熟練の技能や経験を提供し、社会に貢献するという“三方よし”のビジネスモデルを築きあげた。62歳の時に罹患したパーキンソン病で体を動かすことももどかしいコンディションのなか、子供時代から今日までの軌跡と経営哲学を笑顔で語っていただいた。
<上田研二をつくったルーツ1>
父親の失業で、大学進学を断念。
この経験が「リストラはしない」経営哲学に結実
私は愛媛県八幡浜市に生まれました。男女3人ずつ、6人きょうだいの4番目で、一番上の姉とは9つ、一番下の妹とは6つ違いです。父親は地元の紡績工場の工場長という要職にあり、比較的裕福な家庭でした。それが、私が小学5年生の時に暗転します。終戦直後の統制経済下、父親が工場で生産していた反物を、宇和島市の百貨店で和服の小売りを担当していた義父(私にとっては母の父親)に“横流し”したかどで解雇されてしまったのです。その百貨店が大空襲で焼け、売り物がなくなってしまうという窮状を知り、義父を助けようと骨を折ったことが仇となりました。その後、父親は知人の紹介で再就職しましたが、そこも戦後の混乱で失職してしまいます。
家計を助けるために、私は手当たりしだいにアルバイトを始めます。新聞配達、アイスキャンデー売り、マッチや割り箸のラベル張り、田んぼの草取り、竹山から竹を切り取って港まで運ぶ仕事など、実にさまざまです。それでも生活費は到底足りず、両親は質屋通いをしてお金を工面していました。中学校では級長を務めました。男女共学でしたが、席は男女別々。「それはおかしい」と、私は勝手に男女が隣同士座るように変えました。そして、男子にだけ「隣は誰を座らせたいか」と希望を聞いて席順を決めることまでしたのです(笑)。すると、美人の子に人気が集中し、じゃんけんで決めることに。ちなみに級長の私は、皆に遠慮して最後に残った女子の隣に座ることになりました(笑)。ちなみに当時のクラスメイトは仲がよく、今でも毎年、クラス会を開いて旧交を温めあっています。中学に入る頃には、姉たちが働き始めたので多少は楽になりましたが、それでも生活に余裕はなかったので卒業したら働き始めるつもりでいました。ところが、高校入試の模擬試験を受けると学年で2番目の好成績。担任の先生から「研ちゃん、高校ぐらいは出たほうがいいよ」と言われ、両親と相談して奨学金をもらいながら高校に通うことにしました。
私は子供の頃から数学者を夢見ていたほど数学が得意でした。担任の先生は、高校に入ってもトップクラスの成績だった私を何とか大学に進めさせたいと骨を折ってくれ、養子の口まで紹介してくれたのです。しかし、父親が養子で、その苦労を見知っていた私は受け入れることはできませんでした。したがって、大学進学は断念……。こうして、父親の失業により家族が蒙った犠牲は深く私の心に刻み込まれることとなりました。この経験は、「何があってもリストラだけは避けなければならない」という私の経営哲学の根幹につながっています。今、コストダウンのために簡単に社員のリストラや処遇を切り下げる風潮が蔓延しています。経営者が社員とその家族に思いを馳せることなく、お客さまに喜ばれるようないきいきとした企業づくりができるのか、甚だ疑問に感じています。
<上田研二をつくったルーツ2>
就職先第一候補に「願書出し忘れ事件」発生。
結果的に東京ガスに就職したことが高齢社設立につながる
大学に進学し数学者になるという希望を絶たれた私は、半ば仕方なく就職することになりました。当時は就職難の時代でしたが、私の成績なら何とかなると学校が八幡製鐵(現・新日本製鐵)を紹介してくれました。さっそく願書を書いて学校に持って行ったのです。書類選考に通れば、次の入社試験の案内が届くという話でした。ところが、待てど暮らせど一向に届きません。そのうち学校から「書類選考で落ちた」という連絡が入りました。これだけの好成績で、と腑に落ちないものを感じましたが、そんなものかもしれないと。そこで、次点候補の東京ガスの検針員採用に願書を出し、無事合格することができました。
就職試験ももう終わりの時期でしたが、八幡浜高校からは毎年最低1人は東京ガスに就職しており、その年は私のほかにもう1人就職することができたのです。しかし、いずれ大学に入りたいと心のどこかで未練を感じていたので、「就職先などどこでもいい」と思っていたことも正直なところでした。当時の私は、かなりひねくれていたと思います。八幡製鐵の話には、後日談があります。それから10年ぐらい経った頃、父親が地元で当時の校長先生にばったり出会った時、次のような話を聞かされたのです。「研二君の就職については誠に申し訳ないことをした。あの時、書類選考に落ちたのではなく、学校が書類を出し忘れたのを黙っていたのだ」と。もしそんなことが今発覚したら、大変な騒ぎになっているでしょう(笑)。ずいぶん呑気な時代でしたね。それにしても、もしその時に八幡製鐵に入っていたら、高齢社を設立することもなく私の人生は大きく変わっていたことだろうと思います。
東京ガスへの入社が決まった私は、単身、上京することとなります。「勤めは簡単に辞めてはならない。東京の女には気をつけよ」という母親の言葉に送られ、その母親から300円だけもらって八幡浜から岡山まで行き、当地に嫁いでいた姉から3万円を借りて東京に向かいました。急行列車で22時間30分という長旅でした。
<入社後5年間は“ダメ社員”>
「いつでも辞めてやる」という反抗心が過剰で
職転試験制度の受験者223名中、唯一の欠席者に
上京した私は、親戚の家に数日厄介になり下宿を探します。その後、大塚に二畳一間・二食付きで月4500円という下宿を見つけて、そこに住むことにしました。私が就いた検針業務は、現在は「ハローメイト」と呼ばれる女性スタッフが手がけていますが、当時は中卒や高卒の男子社員が行っていたのです。その頃のガスメーターはもっぱら屋内に設置されていたため、検針作業の際は家に上がらなければなりません。そのため、脱ぎやすいよう下駄を履いて歩いていたので、社内では「下駄履きさん」と呼ばれていました。検針員の仕事は、私には面白いものではありませんでした。子供時代からの天邪鬼な性格に加え、「本当は大学に行き数学者になりたかったのに、仕方なしに就職した」という意識がどこかにあったので、仕事に力が入らなかったのです。
墨田区にあった営業所に配属されましたが、大塚の下宿から山手線と総武線を乗り継いでの通勤でした。当時、諸事情で電車が止まることがよくあり、ぎりぎりの時間で下宿を出る私はちょっとでも電車が止まるともう遅刻という始末。職場では、仕事をしない社員として「一に○○、二に上田」と言われるほどのダメ社員だったのです。こんなエピソードもあります。当時、入社して2年経つと検針員から事務職に変更できる職転試験制度がありました。研修を受けた後に試験があるわけですが、これは全員が受けなければならなかったのにもかかわらず、私は研修を受ける気にならず試験もボイコットしてしまったのです。受験者223名中、欠席したのは私だけ。上司から理由を聞かれたので、「1回で受かった先輩はいません。行くだけ無駄ですから」と本当のことを言ったら、さんざん叱られました。
「いつでも辞めてやる」という反抗心が過剰だったんですね。仕方なく翌年に受けることにしましたが、相変わらず研修には一度も出席しなかったので、推薦順位は営業所の受験者13名中13位。それでも合格したのです。当時、人事部に高校の先輩がいたので、後で考えればその方のおかげだったと思っています。しかし、ダメ社員ぶりも相変わらずだったので、事務職への配転は見送られ、結局5年間、検針員の仕事を続けました。ただし、大卒には負けたくないという気持ちも強く、夜間の大学にも通ったのです。忍耐力のなさから卒業には至りませんでしたが、この期間にいろいろな人と出会えたことは楽しかったですね。
<心を入れ替えた転機>
律義で熱心な上司が提案活動の責任者を任せてくれた。
そんな期待に応えようという気持ちが芽生える
そんなダメ社員だった私が心を入れ替える転機となったのは、入社6年目のこと。その年に池袋営業所に転勤になり、直属の上司となった係長との出会いが私を変えたのです。私は、下宿先の娘といい仲になり、入社3年目の21歳の時に結婚しました。その翌年には長女も誕生していましたが、相変わらず遅刻はしょっちゅう、当時は土曜日午後が半ドンの休みだったので、馬券を買いに行ったりパチンコにも行くというダメ社員ぶりが続いていたのです。そんな私に、その上司は親身に接してくれました。彼は厳しさと優しさを兼ね備えた人で、社長巡視がある前の日は夜遅くまで全員での掃除を指揮したり、月に1度は勉強会を開いたりと、律義で熱心な人でした。私にも毎日のように仕事の仕方を教えてくれ、仕事が終わると飲みに誘ってくれて、小言も交えながらサラリーマンのあり方を仕込んでくれました。
そんな私にも少しは見込みがあったのかもしれません、彼は職場の提案活動の責任者を任せてくれたのです。そんな期待に応えようという気持ちが芽生え、私の取り組みに周囲の評価も少しずつ上がっていきました。そして、私は次のようなことを考えるようになったのです。ちょうど2人目の子供も生まれた頃でした。「1日24時間のうち、会社にいるのは半分近い10時間。ならば、その時間を楽しく面白く過ごさなければ損だ」「自分の人生は、宇宙の歴史からすればほんのわずかな時間。大切に生きよう」当時、私は同じ高卒の仲間とよく飲みに行きました。すると、「やっぱり大卒はいいよな~」という話になります。それを聞くのが嫌で、「ならば今から東大でもどこにでも入って、大卒として入社し直せばいいじゃないか」などと吹っかけたものです。実は以前の自分自身も同じようなやっかみを感じていたのですが、その頃は仕事に自信を持つようになって「知識では大卒にかなわないかもしれないが、仕事の知恵では決して負けない」と思えるようになっていたのです。
あれだけのダメ社員が、変われば変わるものです。それもこれも、新しい上司に出会えたおかげ。私はその後も何人かの優れた上司に巡り会うことができました。なかには、常に相手の立場でものを考え、部下の誰からも好かれるという大変素晴らしい人もいました。そういう上司のいるチームは非常にまとまりもよく、大きな力を発揮するものです。無意識的に、自分もそういった存在になろうと思っていたのかもしれません。
●次週、「高齢者の就労を支援する“高齢社”で、三方よしの社会貢献!」の後編へ続く→→
“高齢者”のみ、約850人の登録者とともに、
人間味あふれる社徳のある会社づくりにまい進!
<部下を持つ身に>
「話し方教室」を契機に部下との信頼関係構築に努める。
ノートへのメモをまとめ、信条などの考え方を明確に
その後、いくつかの部署を経て、1971年5月、係長に昇進して、初めて部下を持つことになりました。元来人前で話すことが苦手だったので、これを機に「話し方教室」に通うことにしたのです。ところが、教室を主宰する江木武彦先生から、「話し方」よりも「人間論」を学ぶことになりました。「人生を楽しく生きるには、人間にのみ与えられた“話力”を磨け。“話材”を“話題”にする努力を怠るな」「勇気とは、自分の心の弱さに打ち克つこと。自分が正しいと思ったことは、たとえ袋だたきにあっても主張せよ」。など、今でも印象に残る考え方を教わりました。この講座に参加するうちに、「話し方」を学ぶということは、話を通じてよりよい人間関係を築くことであることを知ったのです。初めて部下を持った私には、非常に参考になりました。そして、部下との信頼関係構築に努めるようになったのです。といっても、その方法は「まず部下を好きになる」という簡単なもの。特に自分に対して態度が悪かったり距離を置こうとしている部下をマークして、毎日毎日辛抱強く声を掛けるということを続けました。
35歳で深川営業所の販売係長になり、付き合う人が増えてくると、「人ノート」をつくり始めました。上司や部下、協力会社の経営者や幹部、取引先などあらゆる人の人柄や考え方などをまとめ、記憶に努めました。飲み会では、割り箸の袋にメモして持ち帰りノートに転記しました。ピーク時には500人を超すまでになりましたね。それだけでなく、本や新聞などで読み、惹かれた言葉を自分の信条などとともに別のノートにメモするようにもなったのです。こうしてまとめた考えの中から、部署としての方針や部下への約束をつくったりしました。例えば、部下に明示した「上田三原則」は、「一、頼まれたことは必ず返事する。二、約束したことは必ず実行する。三、二度とおなじことを言わせない」。もうひとつ、「部署方針三原則」は「一、“原”点に立ち返ろう。二、“現”場第一主義でやろう。三、“元”気でいこう」と、こんな感じです。
1979年10月から本社勤務になった私は、東京ガスのガス機器販売やサービスを担ってもらう協力会社に対する政策を担当する部署のマネージャーになりました。かねてから現場で協力会社の重要性を実感していた私は、そこで100社余りの協力企業の経営者と信頼関係づくりに努めて共存共栄の実現にまい進したのです。特に、「相手にも儲けさせる」という点に留意しました。最近は協力会社に対してとにかく発注金額を下げればいいという傾向が強いように思います。それでは信頼関係など構築できず、エンドユーザーにいい仕事を提供することは難しいのではないでしょうか。そしてこの頃から、仕事を通じて企業経営について見識を深めようという意識が湧いてきたように思います。協力会社の経営者と深夜まで盃を交わしながら本音で語り合い、中小企業経営の肝について認識を重ねていきました。
<関係会社2社への出向>
あきらめずに唱え続け、実践し続ける。
社員の目の色が変わり、倒産寸前から累損・借金一層へ
1991年から2003年にかけて、私は東京ガスから2社の関係会社に出向し再建に取り組むこととなりました。その12年余りの期間に、経営者に必要な多くのことを経験することができました。1社目は、子会社のガス機器メーカーの株式会社ガスターで、当時は製品の品質や納期、サービス対応のすべてに問題を抱えており、18億円近い赤字を出していました。取締役営業本部長として出向した私のミッションは、それら問題を解消し経営の健全化を図ることです。しかし、一般的に子会社の生え抜き社員と親会社からの出向社員の間には少なからず軋轢が生じるもの。そこで私は出向ではなく転籍にしてほしいと願い出ましたが、当時は転籍制度がなく受け入れられませんでした。しかし、退路を断つつもりで、まず社員に次の2つのことを約束したのです。一つ目が、立場は出向だが、この会社に「骨を埋める」つもりで改革に取り組む。二つ目が、変えるべきところは変える。だからあきらめずに何でも言ってほしいところが、社員の反応は「かつて『骨を埋める』と言って出向してきた幹部で、本当に骨を埋めた人は一人もいない」「何でも言えと言われて会議で発言したら、後で叱責された」となど冷ややかなもの。当時の社内は、何か問題が起こると部門間で責任をなすりつけあう有様でした。私はひたすら現場や客先に足を運び、問題の所在と解決方法を少しずつ探る日々を過ごしました。
そして、なかなか周囲に信用されないなかでもあきらめずに支店長や現場のマネージャーに接し、「一番困っている問題を上げてほしい。必ず1週間以内にフィードバックする」と言い続け、実践し続けました。すると、営業部門のベテラン社員のなかから「俺は上田さんを信用する。皆も協力しようじゃないか」と言ってくれる人が出てきたのです。これを機に、さまざまな施策も急速に浸透するようになりました。私は朝7時に家を出て夜23時まで仕事をする日々を送り、体重が10キロほど落ちて体調もおかしくなりましたが、成果は数カ月で現れ始め、3年後には黒字転換を果たすことができたのです。2社目は、ガスターの協力会社であった東京器工株式会社。「倒産やむなし」と言われるほど経営不振が問題となってきたのです。その再建を試みることとなりましたが、社長の引き受け手はなかなか見つかりませんでした。そこで私が手を挙げることにしたのです。自分の経営哲学・経営方針を実行するには最高の舞台と考えたからでした。そして、就任当日、幹部社員を前に「進駐軍としてやってきた上田です」と切り出しました。社内に「うちはもうダメらしいからガスターから進駐軍が来るらしい」という噂が広まっていたため、最初から本音で勝負するしかないと腹を括ったからです。
そして私は、かねてから温めていた「リストラなしで経営を再建する」ことに挑戦しようと決め、「降格人事はあってもリストラはしない」と社内にまず宣言しました。その根底には、小学生時代に味わった、父親の失業による家族の犠牲があったことは言うまでもありません。同社には、幸いにも顧客ニーズや高い技術と経験を有する社員がいたのです。それらをフルに生かせば再建はできる。そう信じて現場を回り全社員と直接話をし、利益が出たら社員に還元することなどを約束。社外からの電話には「ありがとうございます。東京器工の○○です」と応対することを徹底するなど、大小さまざまな施策を講じていきました。すると、しだいに社員の目の色が変わっていったのです。こうして就任2年目で単年度黒字を達成し、5年目には累損6億円・借入金12億円の一掃を果たすことができました。
<高齢社を設立>
「毎日が日曜日」の働く意欲のある高齢者を、
会社のピーク業務対応要員に、という発想
私が高齢社を設立したきっかけには、2つのことがありました。1つは、東京器工の社員が定年を迎えてもなお働く意欲があり、彼らの豊かな経験や技能を何とか生かせないかとの思い。そしてもう1つは、受託していたガス給湯器設置後の使用前試験の発生時期や発生量の変動要因が大きく、発生すると一時期に相当数の要員が必要になるということです。そこで私は、この仕事を定年退職後でもなお働き続けたいという人にやってもらおうと考えたのです。50歳を過ぎて自分の定年後を意識し始めた頃、世話になった先輩たちが退職後にどう過ごしているかちょくちょく耳に入るようになりました。その実態は「退職後は『毎日が日曜日』だから、飲み会やカラオケ、ゴルフとしばらくは楽しく過ごせたが、そのうちに飽きる。行くところがなくなって家に居つくようになると、妻から煙たがられる」といったものでした。口の悪い私は、よく定年後に家に閉じこもって家族から邪魔物扱いされるような高齢者を「産業廃棄物」と冗談で言っていました(笑)。
しかし、働きたくてもこれだという働き口はなかなか見つからないものです。そうした人たちがもう一度活躍し、世の中に役立てる場所を提供することは誰にとってもハッピーなことに違いない、と考えました。「毎日が日曜日」なら、休日でも時給の割増は不要。経験豊富だから、特殊な業務でなければ教育コストも不要。そして、年金受給者だから、生活のために働くわけではなく、賃金へのこだわりは薄い。週3日も働けば家族に邪険にされることもなく、8万~10万円くらい稼げば大威張りで遊びにも行ける。しかも、派遣先の企業からは、豊かな社会人経験をもって若手社員にいい影響を与えることも期待してもらえる。いいことずくめです。独自の再雇用制度などを整備することも考えましたが、東京ガスの子会社のそのまた子会社という立場で進めるのは困難でした。そこで、有志が出資して会社の系列から独立した新会社をつくろうと考えたのです。
この構想には、東京ガスからは「働く人たちにメリットがあり、高齢化社会にも貢献することだから」と了解を得ることができました。ただし、発注側と受注側が同じ社長ではまずいと指摘され、初代社長は同じ会社の役員であった是澤節也氏にお願いしました。社名にもこだわりがありました。周囲には「そんな社名の会社に仕事を出す人なんているだろうか」「もっとスマートな社名にしたら」などと心配されましたが、私は元来のへそ曲がりで、「世の中と逆のことをやったほうが成功する」という考えがあります。「高齢者に生きがいを提供する会社にぴったり。それに広告費をかけずとも一度で覚えてもらえる」と貫き通しました。これが大当たりだったと思っています。雇用資格は、60歳以上70歳(現在は75歳)未満の気力・体力・知力のある人。業務のある場合のみ勤務する不規則勤務形態。処遇は原則的に出来高払いで賞与や退職金はなし、といった条件を定めました。東京ガスのOB名簿や私の年賀状などをリストに電話をかけて誘ったところ、好反応が得られました。奥さんに相談したら「ぜひやりなさい」と言われた人も多かったようです。私のねらいは図星でした(笑)。こうして25名のOBを確保し、2000年1月、高齢社はスタートを切りました。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失う時に初めて老いがくる
高齢社を起業した私には、これまでの経験のなかで得た、企業経営のあるべき形を反映したものにするという強い意思がありました。その柱は、資本主義ではなく“人本主義”の貫徹です。すなわち、「人間味あふれる社徳のある会社づくり」であり、その方法論は「社員・協力企業≧顧客≧株主」による「好循環経営」の実践。「好循環経営」とは、経営資源である人・もの・金を的確な情報をもとに効率的に車輪のごとく回転させ、「社員の幸福・顧客満足・企業の利益」の安定確保を目指す、というもの。つまり、「高収益を上げ、高処遇し、高質労働を提供し、高販売につなげ、高収益を生む」というサイクルを回すことなのです。 高処遇では、例えば年2回の社員期末会(懇親・慰労会)の開催、全社員への社内報の発行、社員相談窓口の設置、社員証の発行などの制度の整備が挙げられます。顔写真入りの社員証は、定年後に所属先がなくなることによる寂しい思いを払拭してもらう意図で作成することにしました。また、オフィスには大小3台の冷蔵庫を置き、ビールとつまみがぎっしり詰まっています。16時以降、お客さまがいらっしゃれば、ご希望があればビールを出して社員ともどもおもてなしをするのが習わしです。そして、黒字が出たら必ず一定の割合で経常利益の一部を社員に還元する決まりもつくりました。
私を含め、役員を中心に営業活動に注力し、東京ガスおよび関係会社や協力会社を中心に仕事を獲得。業績は右肩上がりの成長を続け、設立10年目の2010年度は4億2755万円に達しました。もちろん、問題も発生します。登録社員は東京ガスのOBが多く、就労先も東京ガス関連が多いので、つい昔の職場に戻ったつもりになって横柄な態度を取ってしまう、といったことです。そういった社員には、即交代という厳しい対応をしています。 逆に「1時間前に出社して乗車する車を清掃してくれる」「一緒に仕事をしていて非常に信頼できる」といったお褒めの声も届いています。稼働率(登録社員の就労割合)は一時70%以上まで高まりました。一般的な人材派遣会社は20%程度ですから、その高さがよくわかると思います。もっとも、私が出演したテレビ番組『カンブリア宮殿』が2012年4月19日に放映されると、応募者がどっと押し寄せて、一時期に100人ほど登録した関係で、稼働率は40%程度に落ちました。これをまた上向かせるのが当面の課題です。そのためには、新たな就労分野を開拓することが避けては通れません。このため、営業を手がけてもらう20代の若手社員の拡充を始めたところです。そして“業界別の高齢社”をたくさんつくっていきたいと考えています。そのために、当社のノウハウを積極的にお伝えしていきたいと思っています。
ところで、私は高齢社を設立した2000年頃から、首に違和感を覚え始め、3年後にパーキンソン病と診断されました。手足が震える、動きにくい、言葉がなかなか出てこない、声そのものが出しにくいといった症状に不自由を感じる日々を過ごしています。人に助けてもらうことが増えた半面、他人の痛みがわかるようになり、他人のために生きたいと考えるようになりました。そんなことから、フィリピンのストレートチルドレンを描いた映画製作に寄付をするといったこともやりました。幸いなことに、この病気で命まで取られることはないようです。治療方法も年々進化しています。あきらめることなく、体の動く限り、働き続けたいと思っています。私の座右の銘となっているサミュエル・ウルマンの詩「青春」の冒頭部分をここに記し、読者に皆さんへのメッセージに代えさせていただきます。「青春とは、人生のある期間をいうのではなく心の様相をいうのだ。優れた創造力、逞しき意志、燃ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こういう様相を青春というのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむのである」。
<了>
取材・文:髙橋光二
構成:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓