第146回
株式会社エー・ピー カンパニー
代表取締役社長
米山 久 Hisashi Yoneyama
1970年、東京都生まれ。高校卒業後の3年間、役者を目指して、劇団の研究生とフリーターの2足のわらじ生活を続ける。ハタチをすぎ、電話回線リセールの販売代理店に就職。初めての営業職ながら、努力を続け、知恵を使ったセールスを展開し、入社半年後に、全国営業成績ナンバーワンを獲得。その後、不動産事業、海外ウエディングプロデュース事業などを立ち上げ、成功に導いた。2001年、株式会社エー・ピーカンパニーを設立し、代表取締役社長に就任。八王子市にダーツバーを開業し、飲食事業に参入。2004年、みやざき地頭鶏(じとっこ)専門居酒屋「わが家」を出店。2006年、宮崎県に農業法人を設立し、自社養鶏場と加工センターを立ち上げる。2008年度外食アワードを受賞。2011年、自社漁船による、定置網漁を開始し、漁業での一次産業への進出も果たす。2012年3月1日現在、「塚田農場」「四十八漁場」など、16業態117店舗を展開中。著書に、『ありきたりじゃない 新・外食』(商業界)がある。
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ライフスタイル
好きな食べ物
こだわりのある料理です。
寿司が好きです。一貫の小さな世界に使用するネタを、どんな目利きで選び、どうやって熟成させ、どんなアイデアで仕事をしているか。お店のこだわりに、とても興味があります。それは寿司店に限ったことではなく、例えば焼き肉店でも同じです。お酒なら、赤ワインを最近はよく飲みますね。
趣味
トライアスロンです。
美しい自然の中、海を泳ぎ、ロードをバイクとランニングで、ゴールする。そんな空間にいられること自体を、幸せに感じます。レース仲間には、お互いが認め合う経営者も多く、トライアスロンを通じて出会った、尊敬できる新しい友人も増えました。タイムに挑戦するよりも、ゆるく長く続けていきたいです。
行ってみたい場所
スペインです。
2010年、僕はスペインに行くために、ドイツの空港にいました。でも、アイスランドの火山が噴火し、火山灰のため、飛行機がストップ。結局、陸路でイタリアまで行って、帰国しました。スペインのワインと料理、あと、街の怪しさに興味があるんです。できるだけ早く機会をつくって、訪れたいと思っています。
日本の“食”のあるべき姿を追求する――。
第六次産業の正しい道を、開拓し続ける男
第一次産業、第二次産業、第三次産業のといった既存ビジネスの枠組みを、すべて取り払った“生販直結モデル”で、躍進を続ける新・外食企業がある。自社で養鶏場をつくる、漁船を持ち定置網漁を行う――。かつて、ここまでの取り組みをした企業があっただろうか……。エー・ピーカンパニーを設立し、この仕組みをゼロから構築したのが、同社の代表を務める、米山久である。「とてつもなく大きな責任を負ってしまった。もう、自分たちの夢を叶えようといった、甘い段階ではなくなったということです。そして、雛の誕生から仕事にかかわることが、スタッフのモチベーションを格段に高めてくれた。自分たちは肉の塊を扱っているのではなく、大切な生命を使わせてもらっている。そして、地方の一次産業の活性化を担っている」。今回はそんな米山氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
<米山 久をつくったルーツ1>
人と同じ、“ありきたり”が大嫌い。
絶対に裕福になると誓った小学生時代
生まれたのは、東京の八王子市です。祖父は消防署の職員、父は郵便局員という、典型的な公務員家庭で育ちました。「おまえは警察官になれ」なんて、よく言われていましたよ。まじめで実直な父ではありましたが、自分は絶対に公務員にはなりたくないと思っていました。なぜなら、面白くなさそうだったから(笑)。そもそも小さな頃から、人と同じ、ありきたりが大嫌いな性格なんです。小学校では、東京だからみんな、野球は巨人ファンで、同じ帽子を被っている。でも、僕は絶対にそれを被りたくない。で、どうしたかというと、ライバルの阪神の帽子を買った。クラス中、敵だらけですよ(笑)。そして、その日から今日までずっと、熱狂的な阪神ファンです。もちろん、野球にもはまりました。近所にはソフトボールチームしかなかったので、わざわざ1時間も自転車漕いで、隣町のリトルリーグに通い続けました。ポジションはファーストで、打順は3番。リーグでは、準優勝が最高成績でした。
小学生の頃、ちょうど、ファミコンが出始めて、あと、ゲームウォッチというのも流行っていました。なぜか、当時の友だちには、医者、弁護士、税理士など、裕福な家庭の息子が多くて、その子たちは、発売日当日にゲーム機を買ってもらえる。でも、うちは公務員家庭ですから、そんなに余裕がないでしょう。僕は、何カ月も待って、割引されてからやっと買う。ただ、その間もゲームしたいから、友だちの家に行って、やらせてもらうわけですよ。なんだか、それがすごく悔しくてね……。小学生ながら、「俺は絶対に自分の子どもにそんな思いをさせたくない。必ず金持ちになる」、そんなことを本気で考えていました。もちろん当時は子どもですから経営者になるなんて発想はなく、テレビのブラウン管の中で活躍している、プロ野球選手や、芸能人に憧れていたくらいです。
中学でも野球部に入部しました。エースで4番になりたかったけど、結局、ファーストで3番。要領よくやって、さぼることばかり考えていたから。特に、走り込みが大嫌いでね。球は速いんだけど、足腰がしっかりしていないから、コントロールが悪い。中学時代の記録は、地区大会でベスト8どまりだったと思います。この頃から、遊びも忙しくなってきた。彼女もできたし、週末には新宿や渋谷に通うように。尾崎豊や長淵剛を好きで聴いていたけど、リーゼントやボンタンのヤンキー的不良はかっこ悪いと思ってたんです。だから、僕はアメカジで、都心でおしゃれに遊ぶスタイルを選んだ。昔からの友だちの多くは、今でも八王子に残っているけど、僕には都心の新しい友だちがたくさんできて、地元とは違った華やかな世界の魅力にひかれていくようになるんですよ。
<米山 久をつくったルーツ2>
プロ野球選手、人気俳優の道をあきらめ、
ビジネスの世界での挑戦を決断する
両親からは「公立高校へ行け」と言われていましたが、5教科の勉強は無理(笑)。それで、3教科で受験できる私立を受けて、合格した帝京八王子高校へ進学しました。最初は、野球部に入部したんです。1年の時からベンチ入りして、西東京大会でベスト16。でもね、当時の高校球児って坊主頭が鉄則でしょう。キャップを被って相変わらず遊んでいたのですが、周囲から「帽子を脱げ」ってからかわれるのが面倒でね。プロ野球選手になれる才能もないなと感じて、1年の秋季大会を最後に、野球部を退部。その後は、できるだけ短時間で稼げる時給の高いバイトをしまくりました。稼いだバイト料は、洋服の購入費や、原チャリを改造して八王子から相模湖に抜ける大垂水峠(おおたるみとうげ)を攻める燃料費に消えていきました。高校時代は、文化祭の美男美女コンテストでグランプリに選ばれたりするなど、かなりのモテ期でしたね(笑)。
最初は、大学くらいは行っておこうと思っていました。で、野球部をやめた2年からは、特別進学クラスに入ってみたのですが、坊主頭から卒業して、遊んでばかりで勉強についていけなくなった。そうそう、修学旅行で訪れた沖縄のホテルで、夜、女の子の部屋に忍び込んだんですよ。そしたら、先生に見つかって激怒されて、「退学か坊主になるか選べ!」と……。やむなくまた、沖縄の散髪屋で、坊主頭に逆戻りです(笑)。そして、昔からとにかく、流行に敏感というか、ミーハーでした。映画「私をスキーに連れてって」を観てすぐ、高2の冬から、白馬のスキー場にあるロッジでバイトを開始しました。高校3年の冬には、インストラクター1級の資格を取って、指導者のバイトに昇格。卒業できる出席日数はしっかり計算していたので、雪のシーズンはけっこう学校をさぼって山籠り。そんな自由な感じだったでしょう。高校卒業後の計画もほとんど無計画だったんですよ。
プロ野球選手はあきらめたけど、まだ、俳優の道が残されていた。それで、役者を目指してみることにしたんです。三宅裕司さんが座長を務める、劇団「スーパー・エキセントリック・シアター」の研究生となって、活動を始めました。もちろんバイトと掛け持ちですが、稽古を続けながら、ドラマやCMのチョイ役くらいはやらせてもらった。でもね、僕は有名になりたい、裕福になりたいというのがこの世界に飛び込んだ動機。一方、周りのやつらは、真剣に演劇を愛している人間ばかりだったんですね。この世界、自分はちょっと違うかなと……。研究生とはいえ、世間的な立場は、ただのフリーターです。3年くらい続け、20歳を超えたあたりで、やっと、将来のことを真剣に考えなければと思い始めたんですよ。で、次に飛び込んだのが、当時、市場ができ始めたばかりの、格安市外電話回線の営業です。僕にとっては初めてのビジネスの世界でしたが、自分自身、こんなに水が合うとは思いませんでした。
<事業家としての頭角を現す>
努力と工夫で、営業成績全国ナンバーワンに!
その後も数々のビジネスを起業し、成功に導く
ある代理店に入社したんですよ。始めてたった半年で、営業成績全国1位を獲得しました。歩合の率も高かったから、売れば売るほど収入が増える。プロ野球界も芸能界も、自らあきらめてしまったわけですが、ビジネスの世界で、やっと生来の負けず嫌い精神が戻ってきた。もちろん、人の数倍の努力をしました。誰よりも朝早く出社して、誰よりも1本でも多くアポ取り電話をかける。1社でも多くの会社や顧客に会ってプレゼンをする。先輩から営業トークを教えてもらい、自分の得意なやり方をイメージしながら、知恵を使ってアレンジする。同じトークでは、先輩を超えられないわけですからね。一番売れている営業マンの努力を超える努力をした人間が、次の一番になれる権利を得る。その努力を自分に課したと。結果、半年でナンバーワンになれたというわけです。
そんな生活を3年ほど続けたんですよ。どんなビジネスであっても、商材をつくるか仕入れるかして、それを売るために人件費とほかの経費をかけて、最後に利益を残すのがセオリーでしょう。その仕組みの中であがきながら、稼ぐことはできたのですが、自分以外のいったい誰が喜んでくれているのか、満足してくれているのか……その顔が見えない仕事が、だんだんとむなしくなってきた。代理店での3年間で、ビジネスの基本と、この世界で勝つための要点を、ある程度学ばせてもらいました。それで、いったん組織の一兵卒は卒業。自ら起業してトップを張ることで、より収入を増やしたい。そして、いろんな業界を見ながらビジネスを経験すれば、本気になれる仕事と出合えるのではないかと。今度はそんな欲が、ふくらんでいったんですよ。
いろんなビジネスに挑戦してみました。例えば、海外ウエディングのプロデュース事業。ハワイの教会、ドレスショップ、旅行代理店などと提携し、赤坂に接客オフィスをオープン。ご存じリクルート社の『ゼクシィ』に広告を出せば、毎月20組くらいのカップルを獲得できました。この事業も儲かりましたけど、なんだかリクルート社を喜ばせているような気がして(笑)。やっぱり自分を奮い立たせるものが見つからないわけです。また、このビジネスは、リピートがほとんどないわけで、常に新規営業が強いられる仕事じゃないですか。30歳を前にして、ちょっと疲れてしまいました(笑)。
<社名は5分で決めました>
八王子で開業したダーツバーが大ブレイク!
その舞台裏には、周到な仕掛けがあった
ただ、どんな事業であっても、しっかり結果を残してきたのは事実。ハタチをすぎて、毎月の収入が100万円を切ったことは、一度もありません。だから、正直、どんな業種のビジネスであっても、うまくやれる自信はありました。そんな頃、ある事情があって、11年ぶりに八王子で生活することになったんです。六本木でダーツバーに通っていて、「これは面白い!」とはまっていたのですが、八王子にはダーツバーがない。軽い気持ちで、それ用の会社を設立し、八王子の路地裏にある二等立地に、ダーツバーとダイニングレストランを開業することを決定。で、会社設立の申請をするために、法務局に出かけたのですが、社名を決めるのを忘れていた。すぐに携帯電話で調べて、アミューズメントをプロデュースする会社だから、APカンパニー=エー・ピーカンパニーでOKと(笑)。2001年に、わずか5分で適当に社名を決めた副業が、ここまで成長するなんて、その当時は予想すらしていませんでした。
なぜ、ダーツバーだけではなく、ダイニングを併設したか。そこには、理由があります。ダーツだけでは、新規で集客させる自信がなかったんですよ。だから、知恵をひねりました。2階がダイニング、3階がダーツバー。店内は階段で行き来でき、両方の階に別々のエントランスという店をつくった。そして、『ホットペッパー』を使って、まずはダイニングへの集客を図ります。そこでスタッフが、来店客と「ダーツもお楽しみいただけます」といったコミュニケーションをしながら、3階のダーツバーに誘導する。そんな接客を継続していくなかで、スタッフと来店客が仲良くなって、どちらの店にもリピーターが増えていく。その狙いは、ばっちりと当たりました。オープン初月、2フロア合わせて28万円の家賃の店が、なんと700万円強の売り上げを記録したんですよ。
一人あたりの売り上げは千円単位の商売ですが、自分の目の前でお客さんが喜んでいる顔を見ることができます。また、しっかりと満足を提供すれば、必ずリピーターになってくれる。そして、大きく稼ぐこともできる。この時だったと思います、ずっと自分が求めていたタイプの事業と出会えたと感じたのは。そこから、飲食ビジネスの研究を本格化し、強烈な差別化ポイントを模索し始めました。東京の新橋駅の近くに、ある地鶏専門店があって、よくお邪魔していました。店長の親父さんが、千葉で小さな養鶏場を経営していて、毎日、朝引きの地鶏が直送されてくる。この店も路地裏にありましたが、1週間前に予約しないと入れない人気店です。「そうか、自社農場だから、仕入れが安くて、新鮮でうまいのか」。単純にそんなイメージができます。ここに大きな差別化のポイントがある――。そして、当社の急成長の礎となる、地鶏専門店、美味しい料理、楽しい笑顔の「わが家」1号店が、八王子にオープンします。それが今から7年前、2004年8月のことでした。
●次週、「日本の第一産業を活性化する使命が生まれ、成長意欲が加速した!」の後編へ続く→→
日本の農業、漁業の活性化が自分たちの使命!
5年後の年商目標1000億円も視野に入った
<普通じゃない店づくり>
食肉販売業者がはがし忘れた生産者シールから、
たどりついた宮崎県の養鶏場が運命を変える
2004年頃、多くの地鶏専門店の一人当たり客単価がだいたい7000円。ならばと、「わが屋」は、若いサラリーマンでも自腹で行ける、4000円弱に設定しました。宮崎産の地鶏「地頭鶏(じとっこ)」を、仕入れることができ、開業後、売り上げは初月から1200万円を超えた。ただし、競合の約半額で地鶏を出しているのですから、店が流行るのは当たり前ですよね。だから、利益がそれほど残らない。結局、仕入れを下げるしかないと考え、取引していた食肉販売業者に交渉してもなかなか下がりません。そうやって悩んでいた時、業者から地頭鶏が納品された袋に、養鶏場の名前が書かれた、はがし忘れのシールが残っていたんです。すぐに電話番号を調べて、アポイントを取り、事業計画書を持参して交渉。多少、大げさなプレゼンもしましたが、最終的には直接仕入れさせてもらえることになり、仕入れ値を半分近くに下げることに成功しました。
一方、会社自体は、3期にわたり、順調に利益を出し続けていました。その決算書を持って、各金融機関を回ると、4000万円ほどの融資を受けられることがわかった。「これなら地鶏店を、4店舗くらい出店できそうだ!」。一般的には、4000万円で1、2店舗と考えるのが普通かもしれません。でも、僕の場合は普通じゃないんです(笑)。店舗の設計と施工管理は、自分でやる。また、解体、大工仕事、塗装などは、地元八王子の知人に、“友だち価格”で依頼する。で、彼らには、支払いを分割でお願いする。そうやって、キャッシュをやりくりしながら、「わが家」1号店の創業から1年後の、2005年12月には、実際に5号店目がオープンしていました。知恵を使えば、無理も可能になるんです。僕は人に比べてそうとう、欲深い人間なのだと思います(笑)。
3店舗目をオープンしたあたりで、この事業の大きな可能性を感じていました。お客さまの喜ぶ顔を、予想以上にたくさん見ることができましたから。「絶対に地鶏の量を確保しなければならない――」。そして、当初から温めていた、自社農場の設立に向けて動き始めることになります。宮崎県の日南市にエリアをしぼり、何度も何度も、現地に足を運び、行政の方々や、実際の農家の方々に、このビジネスの可能性を一所懸命、熱く語り続けました。「もしも自社農場を運営できれば、店舗展開がスピードアップします。そうすれば、農家からも地頭鶏全量の仕入れを約束できます。なので、ぜひノウハウを教えてください」と。そんな、僕たちの熱意と思いが伝わった――。そうやって現地の方々の協力を取り付け、日南市に自社農場施設が完成したのが、2006年2月。施設がある場所は、塚田という集落です。もちろん、APカンパニーの主力ブランド「塚田農場」の名前は、この地名に由来しています。
<地方活性化への使命誕生>
皿の上の「料理」ではなく、扱うのは「生命」。
スタッフ全員の共通認識が、同社最大の強み
みやざき地頭鶏の農場経営参入の後、加工センターも設立しました。農場の第一次産業、加工・流通の第二次産業、店舗の第三次産業のすべての枠をすべて取り払った、APカンパニー、オリジナルの“第六次産業”のかたちが整ったわけです。その後、新たなブランド、自社農場直営「塚田農場」をオープン。そこから、お客さまにさらにわかりやすく、僕たちの店のブランドが届き始めたことを実感しました。そして、APカンパニーの店舗数が増えるごとに、日南市の農業の方々の信頼は厚くなっていきます。例えば、これまでト軽トラックに乗っていた農家のおじさんの収入が増え、クラウンに乗るようになった。そんな様を見た別の農家からも、「一緒にやりたい」という声がどんどん届くようになった。今では、日南市だけでも13の契約農家が僕たちのビジネスに参加されるまでになり、人口約6万人の市で、100名を超える雇用を創出することに貢献しました。
もちろん、紆余曲折はありました。ある時は、地頭鶏の生産数が追い付かなくなった。でも、「塚田農場」の看板を掲げている以上、他のブランド地鶏をメニューに使うわけにはいきません。お客さまからのお叱りは覚悟のうえで、泣く泣く3日間、お店を閉めました。それでも、「俺たちは絶対にブランドを守る」という意識が社内外に徹底できた、いい機会になったと思っています。逆に、加工業を始めてすぐの頃、在庫の山をつくってしまったことも。モモ肉はどんどん売れるのですが、胸肉やほかの部位が余ってしまった。このトラブルは、新商品開発のエネルギーに変換したことで、自社の武器に変えることができました。そんな危機を乗り越えながら、今では宮崎県の日向市にも、契約農家のネットワークは広がり、25の契約農家、150人の新規雇用創出に貢献しています。
ちなみに、今、APカンパニーに創業メンバーは一人も残っていません。ただの飲食店経営ではなく、「日本の第一次産業と、食産業全体を活性化する」という志とビジョンが生まれて以降、僕の志向は、「誰と夢を見るか」ではなく、「誰となら実現可能か」に完全にシフトしました。ドラスティックなリストラも断行しましたし、成長のために必要な人材のスカウトと、育成により注力するようになった。言ってみれば、会社はとてつもなく大きな責任を負ってしまった。もう、自分たちの夢を叶えようといった、甘い段階ではなくなったということです。そして、雛の誕生から仕事にかかわることが、スタッフのモチベーションを格段に高めてくれた。自分たちは肉の塊を扱っているのではなく、大切な生命を使わせてもらっている。そして、地方の第一次産業の活性化を担っている。そんな想いに、APカンパニーの強さはあるのです。
<未来へ~エー・ピーカンパニーが目指すもの>
年商1000億円の“生販直結モデル企業”へ!
2017年に掲げた目標は、もはや通過点でしかない
命を扱うこと――。飲食業では当たり前のことですが、うちの想いは店舗の末端までそのことが徹底して共有されています。例えば、「塚田農場」の名物サービスの“鉄板ジャブ”。大人気の「じとっこ炭火焼」というメニューがあります。もしも、お客さまの箸が進まず、鉄板の上に冷めた肉が残っていたら、日向のポン酢おろしネギをお出しして、新たな味で食べきっていただく。さらに、完食された鉄板をいったん下げ、温めたご飯とスパイスで炒めた、「じとっこライス」をお出しする。これらは、無料のサービスですが、錦糸町店のアルバイトスタッフが考案したものです。肉の一塊まで、最後の鶏の油まで、大切な命を食べきっていただくこと。ここにこそ、当社のミッションと、生産者からの願いが込められています。そして、ほとんどの店舗のリピート率が、6割を超えている。この数字も、僕たちの喜びであり、誇りです。
今、地頭鶏をメインにしているうちの店舗は、約90店舗あります。現段階では、もう地頭鶏の生産量が追い付かないので、来年度は新規出店の予定が立てられない。出すものが足りないわけですからね。でも、数年前から、地方の生産者からの問い合わせが急増しています。例えば、北海道・十勝新得町の「新得地鶏」。これは、名古屋コーチンが原種の地鶏ですが、名古屋コーチンに比べ、育成が早く、大きな鶏に成長します。新得地鶏のブランド店は、2011年7月に1号店を出店し、すでに4店舗目ですが、もう現地の生産量が追い付かなくなった。ちなみに、新得地鶏全体の9割5分を当社が仕入れています。誰もがすでに知っている商品には興味なしですが、知る人ぞ知る地方の隠れた食材のブランディングには大いに興味ありです。漁業に従事する方々との提携も進んでいます。「四十八漁場」という店舗がそれで、宮崎県の定置網漁などで捕られた魚を全量買い入れ、その日のうちに東京に届け、お客さまに提供する物流システムを構築しました。今なお、漁師さんからの「一緒に取り組みたい」という連絡は多いです。
当社は16業態、117店舗を展開し、年商80億円の企業となりました。振り返れば、「俺たちが第一次産業を活性化していく!」と自分たちの使命を宣言した瞬間から、会社が自分の意思を持って、走り始めたように思います。今後も、全国の生産者の方々と協力し合いながら、2017年に、年商1000億円の“生販直結モデル企業”に育てることが当面の目標です。主力の外食、そして中食、小売、通信販売、さらに海外店などに広げる「塚田農場」ブランドのマルチ・チャネル展開で、まずは、500億円。同じように、「四十八漁場」ブランドで400億円。そこまでいけば、その後のスピードはさらに加速するはず。創業以来、常に自分のキャパを超えながら走り続け、創業時に描いていた、「20店舗を展開する」という夢は、とうの昔に叶ってしまいました。先述したように、APカンパニーは、すでに意思を持って、未来を目指しています。その意思を常に高く引き上げながら、次代のリーダーを育てていくのが僕の仕事。必ず、ありきたりではない、新しいかたちの“食産業企業”になれると、確信しています。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
世の中には、「よい我慢」と「悪い我慢」がある。
自分をしっかり律し、「よい我慢」を経て起業せよ
「起業したいけど、資金が足りない」と言う人の話をよく聞きます。僕の場合は、どんなビジネスを始める際にも、足りなければ、知り合いから資金を調達していました。出資は、権限の幅を狭めますから、あくまでも借入です。起業資金をコツコツ貯めるくらいなら、できるだけ若いうちに、そのお金で経営感覚を磨くことをしたほうがいい。世の中で流行っていることに首を突っ込む、夜の街で遊びながら仲間をつくる。そっちのほうが、よっぽど大切だと思いますよ。もうひとつ、ビジネス自体の仕組みは、とてもシンプルです。どんな職場に身を置いたとしても、必要とされる生産性のポイントがどこにあるのか、常にウオッチしながら、それを身につける習慣をつけておくこと。やりたいことが見つかれば、成功のアイデアは世の中にあふれています。
新橋の路地裏にある、地鶏専門店の存在が、今の事業アイデアにつながりました。仮に、僕が、「あ~、今日もうまかった」だけで終わっていたら、今のAPカンパニーは存在してないでしょう。自分のやりたいことを明確にし、日常の出会いに関連性を持たせることです。ただし、売れる理由が絶対に必要です。それは、既存のものより、少しでも便利だったり、安かったり、おいしかったりという、自分ならではのオリジナリティ。そこで必要となるのは、知識ではなく、“知恵と工夫”です。それは、本をいくら読んでも、優秀なコンサルを雇っても教えてもらえません。仕事の場でも、遊びの場であっても、頭を使って、自分を高めるための工夫をし続けるしかない。僕は、常に120%以上のキャパ・オーバーで、人生を必死で走り続けてきました。なぜなら、自分の可能性にものすごく興味があるから。力を出し惜しんで、成長機会を逃すことほど、もったいないことはありません。
飲食業は、正直、参入障壁が低いので、競合が多い厳しいマーケットです。これからこのマーケットで勝負して勝ち残りたいなら、グルメでもいい、夜遊び達人でもいい、遊び感覚に優れた人でない限り、難しいと思います。飲食業界で、何年もコツコツやってきたというキャリアだけでは、もはや通用しないのです。あと、飲食業をしたいのか、稼ぎたいのか、自分の志向をしっかり定めることも重要です。そして、稼ぎたいという思いが強くないと、経営は続いていきません。最後に、世の中には、「よい我慢」と「悪い我慢」があると思っています。目の前の仕事で、満足する結果を出すまで、絶対にやめないのが「よい我慢」。ポジションや収入に引きずられ、一歩を踏み出さないのが「悪い我慢」。どんなビジネスで起業するにしても、しっかり「よい我慢」をクリアしてから、一歩を踏み出してください。その後は、知恵と工夫を駆使しながらビジネスに向き合い、常に成長する約束を、自分自身と結ぶことです。
<了>
取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓
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