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第124回
株式会社シグナルトーク 代表取締役
栢 孝文 Takafumi Kaya
1975年、大阪府生まれ。小学生の頃、父親から与えられたパソコンでプログラミングを覚え始める。麻雀歴は中学時代から。パソコンを専門に学べる学科がある大学を探し、私立明星高校から大阪市立大学工学部・情報工学科に進学。卒業後は同大大学院工学研究科・情報工学専攻に進み、研究の傍ら株式会社インテックの契約社員として、FAシステムの開発に従事。大学院修了後の1999年、株式会社セガ・エンタープライゼスに入社する。2001年、株式会社ソニーコンピュータエンタテインメントへ転職。両社で数々のゲームの企画・開発を担当した。2002年11月、株式会社シグナルトークを設立し、代表取締役に就任。ハリウッド映画製作などに用いられるプロジェクトファイナンスを、ゲーム開発に活用し成功。話題となった。2004年4月、高品質のオンラインPC麻雀ゲーム「Maru-Jan(まるじゃん)」をリリース。2010年12月現在、「Maru-Jan」のバージョンは13まで進化。有料ゲームながら、会員数45万人を獲得する人気を得ている。2010年10月、「麻雀ゲームにおける認知症予防の研究調査」の開始を発表した。
ライフスタイル
好きな食べ物
ありとあらゆるもの……。
好き嫌いがないんですよ。なので、ありとあらゆる料理を好んで食べます。特に好きなのは、寿司と納豆ごはん。大阪出身ですが、実家の食卓にはよく納豆が出ました。大阪人が納豆嫌いで有名なことを知らなかったほど(笑)。お酒も好きです。何でも飲みますが、一番好きなのは日本酒です。
趣味
麻雀ですかね……。
すみません……、麻雀なんです(笑)。月に何回くらいやるか? あんまり言うと社員にサボってると思われるので、回数は勘弁してください(笑)。あとは、食べ歩きでしょうか。「食べログ」という素晴らしいサイトで、半径500mの範囲にある人気店を探しては、食べに行っています。
行ってみたい場所
九州とか四国とか……。
九州や四国って、麻雀のルールが違うんですよね。なので、雀荘めぐりをしながら調べてみたいです。日本って、隣り合った都道府県であっても、言葉や食べ物など、文化が違うでしょう。それを体験するのも面白いですしね。その多様性こそが、日本独自の強みを醸成しているのかもしれませんね。
お勧めの本
『アイデアのつくり方』(阪急コミュニケーションズ)
著者 ジェームス W.ヤング
仕事柄、アイデア創出のヒントが書かれている本は、山ほど読んできました。その中でも、この本に一番インスパイアを受けました。薄くてすぐに読めるところもいい(笑)。私自身、多くの成功者にアイデア創出法をお聞きしてきましたが、皆さんの答がこの本のコンテンツとぴったり一致するんです。偉大な発明が生まれる瞬間のヒントが書かれた、素晴らしい良書だと思います。ぜひ、多くの方々に読んでほしいです。
会員数45万人を擁する、お化け麻雀ゲームは、
プロジェクトファイナンスの手法で生み出された!
会員数45万人を擁する、オンライン麻雀ゲームがある。有料、しかもパソコンがメイン。それが、どこまでも“リアル麻雀”にこだわった、まったく新しいかたちの麻雀ゲーム「Maru-Jan(まるじゃん)」だ。開発元は、株式会社シグナルトーク。2002年に創業者である栢孝文(かや・たかふみ)氏が、「クリエイターの理想郷をつくる」という経営ビジョンを掲げ、設立した会社である。同社の主力製品はこの「Maru-Jan」だが、将棋ゲーム「遊び処 ふくろふ」、CGMゲーム「STORY TREE」、ほかさまざまなパズルゲームも提供中だ。「世の中をより良くするために、何か本気でやりたいことがあるなら、やるべきなのです。人間、自分のための行動は適当になりがちですが、他者のためなら際限なく頑張れるものなんですよ。実際に起業してみて、そのことがよくわかりました」。今回はそんな栢氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
<栢 孝文をつくったルーツ1>
どこまでものめり込んでしまう小4の少年が、
父から与えられたパソコンでプログラミングを開始
私は大阪・豊中市生まれで、堺市育ち。家族は、新日本製鐵に勤めていた父、専業主婦の母と、長男の私、弟、妹の5人きょうだいです。子どもの頃から、一度始めたことは、どこまでものめり込む性質でしたね。それも執拗なまでに(笑)。小学生の時、一輪車に夢中になりました。一生懸命練習して乗れるようになったのですが、その後ものめり込みすぎて、左足の筋肉が悲鳴を上げ、お医者さんから一輪車禁止令が発せられました。それでも一輪車に乗りたいと、鉄棒を支えに使って、左足を使わず、右足だけで乗る方法を考え、実践したり(笑)。自分でもなぜそこまでのめり込んでしまうのか、その因果関係はわかりませんが、今でもこの性格は変わっていませんね。
小3くらいから、ファミコンがはやり出して、父に「買ってほしい」と言ったら、なぜだかパソコンを借りてきてくれました。富士通のFM-7ですね。営業職だった父ですが、これからはパソコンの時代がくると感じていたようです。父が私の目の前で、3行くらいのプログラム(BASIC言語)を入力すると、丸い図形が画面にたくさん浮かんできました。それを見て、これはすごく面白そうだと直感。25年前の話ですから、その当時はワープロが出始めたくらいのタイミングです。父には先見の明があったんでしょうね。それ以来、説明書を片手に、プログラミングにのめり込むようになりました。FM-7は音が出せるのが特徴でして、中学では自作のシンセサイザーをつくったりもしましたね。父からは本当にいろんな影響を与えてもらっています。
ラジコンがほしくなった時もそうです。何でもすぐには買ってくれなくて、父は「ラジコン雑誌を見て、一番安く買える店を探してみろ」と。半年くらいかけて雑誌をめくりながら、広告を出している全国の模型店に電話して、価格調査をしました。すると、定価1万2000円のラジコンが、店によって8000円で売られていたりするわけです。素直に驚きましたよね。「同じものでも値段って違うんだ」って。結局、次の誕生日に、定価よりかなり安い価格で目当てのラジコンを手に入れたのですが、雑誌代や電話代を考えると、得をしたのかどうかは疑問です(笑)。ただ、クリエイター上がりの経営者は営業ベタとよく言われますが、私の場合は電話したり、メールしたり、平気で営業しちゃいます。模型店に電話しまくった経験は、今なお役立っていると思っています。
<栢 孝文をつくったルーツ2>
中学2年の授業で書かされた将来の夢。
迷わず書いたのが、「ゲームクリエイター」
「最後は体力がものをいう。中学では必ず運動部に入れ」。父からそう言われ、スイミングスクールに通っていたこともあったので、水泳部に入部しました。自分も30歳を過ぎてから、「最後は体力」の意味がわかるようになりました(笑)。普段はやさしい理科の先生が水泳部の顧問なのですが、部活が始まると人が変わったように厳しくなる。泳ぐだけでなく、走ったり、筋トレしたり、地獄のメニューが半端なく多いんです。でも、ある日、ずらりと書かれている練習メニューが、たったの1行。「あれ、今日は楽なのか?」と思って、目を凝らして見ると、「10㎞泳ぐ」と書いてある。朝から夕方までかかりましたが、何とか泳ぎ切りました。何回往復したかを数えるマネジャーも、つらかったと思います(笑)。
中2の時、将来の夢を書くという授業がありました。迷うことなく、「ゲームクリエイターになる」と書いたことを覚えています。この頃は、プログラミングも続けていましたが、親戚のお兄さんからもらったファミコンにはまっていて、いろんなゲームをするようになっていました。夢が決まってからは、ひとつのゲームに集中するのではなく、できるだけたくさんのゲームに触れるように。なぜこのゲームは売れているのか? 新作の価格が落ちていくのはどのタイミングか? いろいろ考えながらゲームをするようになっていましたね。ちなみに、当時は5000円で発売されたゲームが3000円くらいになると、いっきに価格が下落していました。なので、新作は2000円になってから買うと決めていました。そうすれば、たくさんゲームが買えますからね。
麻雀をするようになったのも、中学生くらいから。両親が結婚祝いにもらったという、麻雀牌が家にありまして。それを大学までずっと僕が使っていました。夢はゲームプログラマーでした。大手のゲーム会社で働くためには、ある程度いい大学に行かなければなりません。そう考えて、高校は私立の進学高校に進んでいます。当時は、パソコンが専門に学べる大学が少なかったため、いくつかの大学に絞り、受験勉強を進めました。入学時のクラスは国公立狙いの「Ⅰ類」でしたが、2年に進級したら「Ⅱ類」に落ちてしまった。その時初めて、母から勉強に対する注意を受けました。「たかふみ、野球と違って、3塁はないで」と(笑)。で、3年になってからは必死で勉強に集中し、希望どおり大阪市立大学工学部情報工学科に現役で合格することができました。
<大阪市立大学へ>
麻雀やって、バイトして、また麻雀の繰り返し。
それが期せずして、将来に役立つ経験となった
大学では、卒業のため試験をクリアしなければならない勉強と、自分がやりたい勉強をしっかりわけ、それぞれ集中してこなしました。あとは、塾講師のバイトと麻雀の日々。同級生に麻雀好きなやつが多かったので。麻雀をやってバイトやって、また麻雀。本当にそんな感じでしたね。麻雀は、大学の友人ともやりましたし、雀荘でフリー麻雀もよく打ちました。自分ではけっこう強いと思っていましたが、雀荘には強面でプロ並みのおじさんや、化け物みたいなおじいさんがいたりして、やられることも多かったです。この頃は本当に麻雀の面白さにのめり込んでいて、年間で1000半荘は打っていたと思います。
塾講師のバイトも非常に得難い経験となりました。小3から中3の子どもたちが生徒で、僕の担当は主に理科。この塾がとても先進的でして、子どもたちが講師を評価するシステムを取り入れていました。自分ではわかりやすく教えていると思っていたのですが、最初の評価は散々でした。生徒たちの評価がスコアになって出るので、ほかの講師との差が歴然と突きつけられるわけです。人間って何でもそうですが、自分が頑張っていても、評価されないと不幸じゃないですか。スコアが出るってことは、自分のポジションがわかるわけで、スコアを上げるためにはどうすればいいかわかるようになる。体重計もある意味スコアですよね。自分の体重がわかれば、ダイエットすべきか否か考えるようになりますから。私は自分のスコアを上げるために、評価が高い先輩の授業を観察することにしました。
正直、その先輩の授業がうまいと思えませんでしたが、生徒全員に声をかけているんです。挨拶から始まって、「バスケの試合どうやった?」「あかんかった」とか、ひとりひとりの生徒の状況を把握しているわけです。ああ、コミュニケーションって大事なんだなと。それからは、自分も生徒に挨拶をすることから始め、難しい問題はダジャレを交えて教えたり、生徒とのコミュニケーションを増やしていきました。また、自分なりに伝え方の研究をして、ホワイトボードの使い方をいろいろ考えたり、文章をより簡潔に伝える技術を磨いたり、さまざまな工夫を取り入れていった結果、スコアをかなり高いところまで持っていくことに成功。また、以前は人前で話すことが苦手でしたが、それもまったく平気になりました。結局、5年間、この塾で講師を続けましたが、当時の経験が経営者となった今も、すごく役に立っています。
<セガ・エンタープライゼスへ>
2度目の挑戦で得た、セガからの内定通知。
ITバブル崩壊後、やり切れないジレンマが……
私は、どうしてもセガ・エンタープライゼス(現・セガ)に就職したかったのです。でも、面接で落とされてしまって。あれ、入れてくれないの……と。大学院に進むことにしたのも、ある意味、就職浪人のようなものなのです。プログラミングは続けていましたので、システムでもつくって売るかと、大学院生のまま、合資会社をつくりまして、大手電機メーカーの仕事を請け負うように。半導体工場のFAシステムをつくる契約社員になって、けっこう稼がせてもらいました。最後は時給4000円ほどになりましたから。1998年当時は、世にインターネットが広まり始めた頃。契約社員の傍ら、苦情処理ソフトをつくって、サイトでのサービスを展開するつもりでした。あらゆる消費者の苦情を引き受け、会社や店舗側に提供していくというもの。経営者であれば、誰もが喉から手が出るくらいほしい情報のはずです。これは、ものすごい価値を生み出すビジネスになると確信していました。
特許も取得して、サイトを立ち上げる寸前までいったんです。すると、エントリーしていたセガから内定の連絡が届いてしまった。2年前に落とされた時、持参した企画書が「音ゲー」の提案だったんです。それをコナミに先取りされて、「ビートマニア」や「ダンス・ダンス・レボリューション」が大ヒット。大学院時代の面接では、「せっかく2年前に提案したのに、もったいなかったですね」みたいな話をしたんですよ。そうしたら、面白いやつだと思われたようで。結果、苦情処理サービスの立ち上げではなく、昔からの夢のほうを優先させることにしました。無事、大学院も終了でき、私は念願のセガで働くことができることになったのです。入社後は、ドリームキャストのパズルゲームを中心とした、企画の仕事に就くことになりました。
新入社員研修で、「4人で遊べるパズルゲームを考えよ」というお題が出て、私が考えたのが後の「チューチューロケット!」。社会人になって最初の仕事は、このソフトの企画制作でした。その後は、携帯電話ゲームのプロジェクトをプランニングするなど、忙しくも楽しく働いていたのです。でも、ITバブルの崩壊も相まって、だんだんとゲーム業界も厳しくなってきます。さらに開発費がどんどん高騰し始め、新作がなかなか出せない状況に。私は新しいゲームをたくさん世に出したくて、この会社に入ったのに、それができないわけです。その後、ご縁があってソニーコンピュータエンタテインメントに転職しますが、状況は好転してくれませんでした。どうすれば自分がやりたい仕事ができるようになるのか……。いろいろ熟考した結果、たどり着いたのが、プロジェクトファイナンスという手法だったのです。
●次週、「常識を覆し、PC有料麻雀ゲームで会員45万人を獲得!」の後編へ続く→
利益の50%を社員に還元、積極的な寄付活動――。
すべては、クリエイターの理想郷をつくるため
<プロジェクトファイナンスへの挑戦>
20人、2法人から出資された5460万円の資金をもとに、
どこまでもリアルにこだわった麻雀ゲームを開発する
プロジェクトファイナンスとは、ハリウッド映画などがよく実行している資金獲得手法です。会社へ投資するのではなく、脚本にさまざまな企業が投資し、リターンを得るという。数百億円の資金を集めて、映画づくりを進めることもざらですね。このやり方であれば、リスクを分散させ、かつ、株主から文句を言われずゲームづくりに専念できると考えました。渋谷の居酒屋で、友人と飲みながらその話をしたんですよ。その時は「それは無理だよ」と反対され、「翌日、またファミレスで話そう」と。私も帰ればいいのに、そのまま麻雀を始めて、徹夜しちゃったんですよ(笑)。その時に、自分はいろんなゲームをしてきたけど、リアルで行う麻雀を超えるものに出合ったことがないことに気づいたのです。もちろん、いつかは麻雀を超えるゲームをつくってみたいと思っていますが、まずはこのリアル麻雀を徹底してやっつけてみようと。
ソニーを退社後、2002年にまずは100ドルでハワイに会社を設立し、日本法人を設置。それから、5000万円の開発・運用資金を集め、3億円の売り上げを目指す企画書を携え、投資家回りを始めました。それはもう、ことごとく断られ続けました。「PCゲームなんてもう終わっている」「仮に大ヒットしたとして、年間売上1000万円で頭打ち」「麻雀ゲームは無料のものがたくさんあるじゃないか」などなど……。ただし、私はマーケットが始まる前に勝負するか、マーケットが終わった後に勝負するか選ぶなら、後者だと思うのです。また、2002年当時の市場環境を見ていくと、PCというハードはどんどん増加しています。そして、ソフトバンクが定額制のブロードバンド網の構築を始めています。また、楽天やアマゾンの頑張りで、クレジット課金への抵抗がなくなりつつありました。自分としては、やり方によっては、絶対に勝負できると踏んだのです。
そもそも、私がつくりたいのは、巷にあふれている麻雀ゲームではないのです。リアルの麻雀をしのぐような、麻雀ゲームとでもいうのでしょうか。そのために配牌の仕組みは全自動卓のメーカーに協力を仰いだり、音にこだわったり、どこまでもリアルな麻雀を目指しました。そして、1年間必死で駆けずり回り、800人くらいの投資家候補と会ったでしょうか。その内の20人、2法人から、合計5460万円を出資いただき、開発をスタート。そして2004年、PC上で遊べるオンライン・リアル麻雀「Maru-Jan(まるじゃん)」をカットオーバーさせます。1ゲームごと、半荘1回で150円の課金です。しかし1年目は残念ながら、3000万円の売り上げで終了。投資家の皆さんには、「売り上げの10%を返すので、あと2年間継続させてほしい」とお願いしました。そもそも皆さん、「なんかよくわからないけど、栢が頑張るなら協力するよ」というノリでご協力いただいた方々(笑)。全員気持ちよく了承していただきました。結果、2年後に投資額の150%をお返しすることができたのです。
<「Maru-Jan」はなぜ成功したか?>
リアルへの追究、寄付活動、数々のイベント実施。
必要と思えることを全部やってきたことが成功要因
今、「Maru-Jan」の会員は45万人まで増加し、年間の売り上げは6億円を超えています。成功要因は?とよく聞かれますが、「こうしたほうが良い」をすべて見逃さずに実行してきたからだと思っています。ゲームのクオリティ、プロモーション、広告、顧客とのリレーション、もちろんスタッフマネジメントも、必要と思えることを全部やってきたことが成功要因です。たとえ話でいえば、1000個の台車を、全部私が引っ張っているような感じでしょうか。麻雀は本当に奥が深いゲームです。現在の「Maru-Jan」はヴァージョン13ですけど、まだまだ搭載したい機能があるんです。うちの経営会議は社員全員が参加しますが、搭載したい機能をどうやって削るか、それが議題だったりしますからね。リアルな麻雀を2、3年でやっつけられると考えていましたが、とんでもない勘違いでした。経営に終わりはないとよく言われますが、「Maru-Jan」プロジェクトの終わりもまだ見えません。
もちろん機能だけではなく、毎週、毎月、年間のイベントなど、会員が楽しく参加できる仕組みづくりもたくさん用意しています。また、社会貢献活動も積極的に行っています。社会貢献をスローガンに掲げている企業は多いですが、要は実行だと思うのです。うちの場合は、赤十字や赤い羽根募金に1日の売り上げの半分を寄付しています。驚いたのは、赤い羽根募金へ寄付する法人が4000社ほどあるそうなのですが、2008年の寄付額上位2位が当社だったのです。企業のチャリティ参加意欲がいかに低いかわかります。まあ、当社は私ひとりが株主ですから、株主無視の経営ができます。2009年からはユニセフのチャリティにも参加していて、会員が「平和(ピンフ)」という役で上がるたびに10円寄付と決めました。それを2週間続けた結果、約140万円の寄付が実現。ピンフって、とっても上がりやすい役なのです(笑)。
寄付の目的は社会貢献という側面もありますが、いい会社という評判が広がることでスタッフのモラルが上がる、会員も楽しみながら社会貢献ができるなど、ほかにも当社にとってさまざまなメリットがあるのです。自分自身も気持ちいいですしね。これからも株主無視の経営を貫きますから、上場はしません。それよりも、「クリエイターの理想郷」と言われるような会社にしていきたい。頑張ったスタッフにきちんとフィードバックをしていくため、利益の50%を還元しています。先ほど、スコアの話をしましたが、全員が全員を評価する仕組みを取り入れて、それぞれの利益貢献度を決定し利益配分をします。私が会社員時代にヒット作をつくっても、あまりいい思いをしませんでしたからね。今の子どもたちが、ゲームクリエイターになりたいと言っても、ほとんどの親は「安月給で過酷な労働だから、やめておきなさい」と反対するのではないでしょうか。だからこそ、早く年収1000万円プレイヤーを一人でも多くつくって、ゲームクリエイターの社会的地位を上げたいのです。
<未来へ~シグナルトークが目指すもの>
認知症予防にシグナルトークが関われる喜び。
まだまだワクワクする挑戦が続いていく
2006年1月でしたか。ふと思っていたことがありまして、真剣に調べ始めたことがあります。何かというと、麻雀は認知症、いわゆるボケの防止に効果があるらしいと。静岡県の浜松市にいらっしゃる認知症予防の権威の先生に相談に伺いました。最初は、「麻雀は認知症の防止に効く」というコメントがもらえれば、会員数も増えそうだという下心からでしたが(笑)。「Maru-Jan」の会員の約半数が45歳以上で、その3割が60代ということもありましたからね。でも、お話を聞くにつれ、自分がこの仕事をやってきたのはこのためだったのかという、ミッションが生まれたんです。当時3万5000人の高齢者に、リアルの麻雀をやってもらう臨床を実施したところ、先生の実感知ではありますが、40%以上の方々に脳活性の改善が見られたそうです。
また、雪の多い地方では、外出できない高齢者も多く、怪我をしてベッドから動けない状態が、認知症を進めるという話も聞きました。だったら、オンラインの「Maru-Jan」は最適なのではないかと。それから4年が過ぎましたが、その間、たくさんの認知症予防の研究者に会わせていただき、今年からやっと本格的な研究がスタートしました。これまで、ゲームは認知症予防に役に立たないが定説でしたが、実際に脳が活性化する結果も少しずつではありますが、出始めています。どうやって人を楽しませるか、そればかりを考えるエンターテインメントの世界が、人助けをするための医療・治療の世界につながった。もちろん、すぐに結果が出るわけはありませんので、これから2年くらいスコアをじっくり追いかけていく必要があるでしょう。
皆さんご存じのとおり、我が国の高齢化はものすごいスピードで進んでいきます。厚労省の2009年の調査によると、認知症の方が220万人もいるそうです。多くは話しませんが、認知症の老人介護が原因となった、痛ましい事件も増えています。そこに貢献できると思えば、これほど嬉しいことはないですよね。世界の国々、特に中国は、将来の高齢者社会の到来を危惧しています。高齢者社会の最先端である日本の認知症予防ソリューションの開発に携われるなんて、起業当初は思いもしませんでした。「Maru-Jan」を認知症予防に役立てるだけではなく、研究機関と共同で行う識別テストの開発や、オンラインアンケートによる認知症の別途改善策の研究なども進めています。この取り組みを、日本の次代の新産業として育てていきたい。経営は終わりのない旅という話をしましたが、これからも、まだまだワクワクするような挑戦が続いていきそうです。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
自分がやるべきことを思いどおりにやるためには、
すべてのリスクを背負って起業するしか道はない
私の場合は、業界を何とかしたいという思いで起業しました。つまり、コンテンツのリスクと会社のリスクを分離するにはどうしたらいいか考えた時に、自分が考える仕組みを持った会社をつくるしかないという結論に至ったわけです。何かしら目的とか、問題意識とかあるのであれば、ぜひ起業されたほうがいいと思いますね。もちろん、会社組織の中でも解決できることはあるでしょう。でも、完全に思いどおりは無理ですよね。自分がやるべきだと強く思ったことを思いどおりにやりたいなら、起業するしか道はないのです。ただし、何が起こっても全責任を負うという覚悟は必須です。そしてそれが、一番後悔のない生き方だと思うのです。
私がゲームをつくる人になろうというところからスタートしましたが、それはゲームをつくりたいという強い思いがあったからです。4年前に認知症予防への貢献というミッションと出合えたわけですが、これもゲームの仕事を一生懸命続けてきたからこそですよね。ゲームって多くの人から社会の無駄だと言われていましたけど、仮に認知症予防に本当に役立つことが実証されれば、きっと「ゲームクリエイターはすごい!」となる。いずれにせよ、起業してみなければこのミッションにも出合えなかった。だから、スタートすることがとても大切です。優秀な方であればあるほど、いろんな荷物を背負っていますから、退職の踏ん切りがつかないのもわかります。でも、やってみたからわかることも山ほどあります。起業しないと出合えない仕事、得られなかった報酬を得る可能性もあるわけです。
まあ、迷っているなら飛び出してほしいな、とは思います。よく「リスクって考えなかったのですか?」と聞かれます。最大のリスクって命を失うことでしょう。では命とは何かと考えると、生きている時間ですよね。その大切な時間をどう使うか。人間はいつ最後が訪れるか、誰にもわかりません。もしかしたら、明日交通事故で死んでしまうかもしれない。やりたいことをやらずにこの世を去ることは、とても大きなリスクだと思うのです。もちろん、今の仕事に大きなやりがいがあれば別です。でも、世の中をより良くするために、何か本気でやりたいことがあるなら、やるべきなのです。人間、自分のための行動は適当になりがちですが、他者のためなら際限なく頑張れるものなんですよ。実際に起業してみて、そのことがよくわかりました。もし今、自分が起業してなかったとしたら、ゾッとしますね(笑)。
<了>
取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓