その時、偉人たちはどう動いたのか?  新日本製鐵創業者 永野重雄 2

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

エピソード2「富士製鐵発足」
「私は従業員に『もし広畑製鉄所が取れなかったら腹を切る』と言明した」 (50歳)

 富士製鐵が発足した時のエピソード。

 1934年、国策により、官営八幡製鐵所を中心に富士製鋼など民間の製鉄会社5社が合同して「日本製鐵」が発足。そして1950年、GHQの財閥 解体政策により「八幡製鐵」と「北日本製鐵」に分離されることとなった。日本製鐵で常務まで上り詰めていた永野が北日本製鐵(後に富士製鐵)の社長に任命 される。八幡製鐵の主力である八幡製鉄所には製銑、製鋼、圧延の各機能がバランスよくそろっていた。これに対し、富士製鐵には柱となるべき広畑製鉄所が あった。しかし、当時日本最大・最新の高炉2基と厚板生産設備が爆撃も受けずそのまま残ったがゆえに、戦後の混乱の中、更なる2つの再編案や、時の吉田茂 首相サイドからの「外資に売って外貨獲得の手段にする」案が流されてきた。外貨獲得は当時の至上命題であったのである。

「どの案もそれなりに理由はあるが、私のほうも広畑が抜けたら新会社は全く成り立たない。私は従業員に『もし広畑が取れなかったら腹を切る』と言明 した」

 永野は、「人を通してくどくような回りくどいことをしてもラチがあかない」と、それらの再編案を主張する当事者のところに乗り込んで行った。そし て縷々説得し、降りてもらうことに成功する。最後に残されたのは吉田首相。頑固なことでは右に出るものはない。会ってしくじったら最後である。そこで、高 校時代の柔道仲間であった日清紡社長の桜田武氏を通じて、同社会長の宮嶋清次郎氏に吉田首相に説得してもらうよう依頼。宮嶋氏は、吉田首相の経済顧問の任 にあった。宮嶋氏は共感し、吉田首相に「経済というものは、過去の伝統や経緯というものがあって動いている。そう簡単に、ただ外貨を獲得すればいいという ことではなく、もっと慎重に判断すべきだ」と進言した。その時、同席していた官房長官の佐藤栄作氏が「宮嶋さんのおっしゃるとおり」と同調。その一言で、 吉田首相は「よくわかった」と言ったという。

 八幡・富士に分離した時点での両会社の実力差は、富士は八幡の半分程度であった。永野は、「八幡に追いつき追い越せ」と前垂れ商法に徹してがんば り、20年後にはついに肩を並べるまでになったのである。

私 たちならこうする!

(株)リサイクルワン 代表取締役 木南陽介氏

相手に応じて、ある時は直接乗り込んで、ある時は的確な人を介して交渉を行う。このエピソードには、永野氏の巧妙な交渉術を感じさせられます。また、従業 員には「腹を切る」と潔く言明し、それで有言実行を行う。ただぶち上げるだけではなく、覚悟の上で自ら乗り込んで勝ち取ってくる。永野氏は、「大将戦に勝 てる」大将の器のある人だと思います。
私は、早期に売上高100億円企業となること、近年中に上場することを掲げています。有言実行して、絶対に到達させたいところです。

(株)カフェグルーブ 代表取締役 浜田寿人氏

当時と今との時代の違いを感じさせるエピソードですね。今では、日本ビクターや日興コーディアル証券が外資に買われる時代。事業にはスピードが問われるの で、外資を入れてでもドライブをかけたほうが、その企業のためになるということも多いと思います。
そういう観点で見ると、日本という島国だから守るべきものと、逆に開放すべきものがあると感じました。今でも産業界には外資の買収論に対する抵抗感が残っ ているようですが、いつまでも「日本人至上論」を持ち続けていると、世界のトレンドに乗り遅れるような危惧も感じます。私たちが思う以上に、世界との距離 は近いのです。

(株)ワークスアプリケーションズ 代表取締役 CEO 牧野正幸氏

会社の存亡を前に、経営者として「覚悟を決めた」エピソードだと思います。覚悟を決めれば、経営者ならこういった交渉は誰でも必死に行うのではないでしょ うか。ベンチャー起業家のチャレンジというより、経営者として闘うか、逃げるかという選択の問題。もちろん、私は闘います。

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