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エピソード3「『カップヌードル』の開発と普及活動」
「いい商品は、必ず世の中は気がつく、それまでの辛抱だと社員を励ました」 (61歳)
「カップヌードル」を開発し、大ヒット商品とするまでのエピソード。
1966年、世界にインスタントラーメンを広めるヒントを得るために安藤は欧米に視察旅行に出かける。ロサンゼルスのスーパーにチキンラーメンを持って いった時のこと。バイヤーに試食を頼んだが、めんを入れるどんぶりがない。するとバイヤーらは紙コップを持ち出してきて、チキンラーメンを真っ二つに割っ て入れ、お湯を注いでフォークで食べ始めた。食べ終わった紙コップはポイとゴミ箱に。
「目からウロコ、とはこのことか。それまで『おいしさに国境はない』と考えていたが、超えるべき食習慣の壁が存在していたのである」
これをヒントに、安藤は容器の開発から着手した。容器、調理器具、食器の3つを兼ねる画期的なカップは、あらゆる素材の中から経済性や断熱性に優 れた発砲スチロールを採用。試行錯誤の末、無臭で厚み2.1mmのカップづくりに成功。また、厚さが6cmにもなるめんの固まりを均一に揚げる方法にも苦 労する。偶然や幸運にも味方をされて、「カップヌードル」は商品化された。
しかし、「袋めんが25円なのに100円は高い」「立ったまま食べるとは良俗に反する」などと反応は悪い。商品を後押ししてくれる問屋はなく、注 文も来なかった。仕方なく安藤は食品ルート以外への販売を指示するものの、社内からはこの商品を危ぶむ声も。
「いい商品は、必ず世の中は気がつく、それまでの辛抱だと社員を励ました」
発売した年の11月。東京・銀座の三越前の歩行者天国で試食販売を行う。長髪にジーンズの若者で黒山の人だかり。同じ年の7月、同じ三越にマクド ナルド1号店がオープンしており、米国発のファストフード文化が花を開き始めた時代だった。
「一方、相変わらずスーパーの店頭には並ばない。そこで私は、専用の給湯設備がついた自動販売機をつくることにした」
発売の翌72年。「浅間山荘事件」の現場中継で、雪の中で山荘を包囲する機動隊員が湯気の立つカップヌードルを食べているシーンが映し出された。 当時、カップヌードルが納入されていたのは機動隊だけ。問い合わせが殺到し、カップヌードルは火がついたように売れ始めたのである。
私 たちならこうする!
(株)リサイクルワン 代表取締役 木南陽介氏 自動販売機のエピソードには、自分の信念をまっすぐ貫いて、壁に当たっても努力し続ける安藤氏の人柄がよく表れていると思います。信念と行動が一致し、ひ たすらアクションを起こして突き破ろうとする。浅間山荘事件のことも、偶然のようでも、そういった努力が積み重なった上で引き寄せた幸運のような気がしま す。 |
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(株)カフェグルーブ 代表取締役 浜田寿人氏 商品開発にはあくなき追求が大事だということと、ファストフード批判がある中で、そう思わせない努力も相当されたのだろうということを感じました。 |
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(株)ワークスアプリケーションズ 代表取締役 CEO 牧野正幸氏 私自身、カップヌードルのお湯が出る自販機を初めて見た時「すごい」と思いました(笑)。専用の自販機をつくったり、容器と調理器具と食器を兼用にしてし まうなど、安藤氏の発想の転換力は素晴らしいと思います。 |